明日から…
いよいよ指定訪問看護ステーションとして、正式に動き出すことができます。
今日まで沢山の方が、まだよちよち歩きの私達のことを応援してくれました。
本当に感謝という言葉しか思い浮かびません。
今日、管轄の福祉事務所へ指定訪問看護ステーションの証明書を取りに伺ってきました。紙1枚ですが、なんとも言えない重みを感じました。
今日は私の父の命日でもあります。
父が亡くなったのは、私が看護師になって4年目のこと。父はまだ58歳でした。
父の病気が発覚したのは、私が看護学生の頃。その頃は看護師になることにいまひとつ実感が湧かず、当時音楽バンドのボーカルをやっていた私は、歌で生きていけたらな、などと甘い考えも持っていました。
父が末期癌だとわかったのは、ちょうどその頃でした。夜中によくトイレに行く、という話を父がしていた時に、その時実習で受け持っていた方が前立腺肥大で同じ症状があり、軽い気持ちで泌尿器科へ受診を勧めました。
数日後、病院からの呼び出し。家族で来てください、とのこと。悪いことばかりが頭に浮かび、持っていた教科書で調べられることは全て調べていきました。
父が死んじゃうのではないか、というどうしようもない不安な気持ちと、看護学生としてしっかり状態を聞いて来なければ、という気持ちが混在して、その時の診察室でのやり取りは今でも妙にはっきり覚えています。
予後は?余命は?
そんなことまでよく聞けたものだと、今更ながら当時の自分があんなに心臓をバクバクさせながら、できる限り冷静に振る舞っていたのだと思い返します。
診察室から出て、待合室のソファに腰掛けた父がポツリと言ったのは
「困ったなー」
でした。
人間て、それまで想像もしてなかった事実に直面すると困るんだな、となんだかここでも冷静に納得していた自分がいました。
仕事一筋の父でした。我慢強く、弱音も吐かず、コツコツと着実に進めていく姿勢は私には追いつけそうにありません。
父は決して娘だからと甘やかすようなタイプではなく、関係は割とドライで、門限なども言われたこともなく、ただ人様に迷惑をかけないように。学校を卒業したら自立するように。と言われて育てられました。
父の病期はすでに末期で、手術はできませんでした。抗癌剤と放射線治療で短期間入院もしましたが、ほとんどは自宅で過ごし、大好きな仕事も最期まで行くことができました。
病気がわかってから、家族での時間が大切になったけれど、同時にいつ父がいなくなってしまうのか、言いようのない不安に押しつぶされそうになっていました。
看護師になり、『人の死』に立ち会っても、慣れることはなかったし、むしろどうすることが正解なのかわからなくて迷って悩んで。
看護師3年目で訪問看護の扉を叩き、学びの足りなさを必死で埋めようと研修にも行きました。学ぶことが楽しくて仕方ありませんでした。
それでも父の容態は時と共に悪くなっていきました。
どんなに看護を学んでも、経験を積んでも、1番近い家族の姿に向き合えない自分がいました。忙しさを理由に、実家に戻らない日もありました。
亡くなる数日前、家に帰って見た父の姿に愕然としました。こんなに悪化してたのか、と。
そして亡くなる前日のこと。父はそれまで通っていた病院の他に受診することを拒みました。足がパンパンに浮腫んで歩くのもやっとなのに、通院して診察を受けても、親身になってくれるような主治医でないのに、何故かその先生に義理立てしている父。
私は、自分の命なんだから、誰に気をつかうこともないし、辛いなら少しでも楽になるように別のところに行くことも大切だと、父に伝えました。
ようやくセカンドオピニオンを選択した父でしたが、時すでに遅し。その病院で検査すると、肝臓にも転移していて余命1ヶ月だと。
病院から戻った父は、やっとの思いで二階の部屋に上がりソファで眠りました。もうその頃はベッドで眠れず、マッサージソファのようなものでようやく眠っていたのです。
母と弟は受診に付き添って疲れていたため、私が一晩中父の体をさすっていました。
それまで弱音なんか吐かなかった父が、夜中に「もうやめるってお母さんに言って」と言いました。本当にしんどかったんだと思います。
私がもういいの?と聞くと、もういい、とだけ言いました。
明け方まで、意識が朦朧としているような状態で父は時々なにかしゃべっていました。私はずっと父の体をさすることしかできませんでした。
幼い頃から、大きな存在で、絶対にかなわない偉大さを感じていた父でしたが、その時私の手の中にいた父はなんだかとてもか弱くて小さいような感じがしました。
朝になり、夜通し父に付き添っていた私が父の足元でうたた寝していると、そこに父がソファから転がり落ちてきました。
何事かと驚き、すぐに確認しましたが、父は意識がなく、救急車を呼んで病院へ向かいました。
病院についてすぐに点滴のルートが確保され、尿道からカテーテルが挿入されました。
病室に運ばれましたが、医師も看護師も慌ただしく病室を出たり入ったりしていました。
血圧が下がって、昇圧剤を使うことになりました。
母と弟がその場にいなかった間に父は息を引き取りました。
最期の言葉は
「おかあさん」でした。
父は母のことを、お母さんと呼んでいました。仲良し夫婦の最期の言葉らしい遺言でした。
父を看取って、沢山のことに気づきました。大切なことも気づかされました。それから沢山の方をお見送りしてきました。
私はまだまだ道の途中で、これから先もまだまだずっと学ばせて頂くことばかりですが、どんな時でもその人の人生とまっすぐ向き合いたいと思っています。
父への感謝、そして母への感謝。
そして何より夫と娘への感謝。
この気持ちを大切にしながら、明日からのゆずり葉の物語を紡いでいきたいと思います。